コラム インタビュー

フラワーアーティスト「花峰館 高木礼子」インタビュー

解体寸前の明治時代の産業遺産


ブーケ

高木さんはフラワーアーティストで、フラワーデザイン教室の先生などをされているんですよね。

そうです。フラワーデザイン歴は長くて。東京で勉強していたんですけど、四十数年前に熊本に戻って。

花がこんなに楽しいものであるということを広めたいと思ったんですよね。

それで熊本に戻って、教室を始めました。

そんなフラワーアーティストさんに、明治時代の建物の移築のお話がどうやって来るんですか。

そのときは、自然環境の良い金峰山に別邸を建てようと、土地を買っていたんですね。

そして、知り合いだった工務店の奥さんに、どんな建物が良いかなと相談をしていました。

そんなときに、その奥さんに電話が入ったんです。

電話の相手は文化財関係の方で、「いよいよ、あの建物が壊されることが、たった今、決定した。非常に残念である」というような話でした。

それが火曜日の午後だったんですけど、週明けの月曜日から、もう壊されると。

とにかく、壊されるなら、もう一回見ておこうということで、「高木さんも行くね?」と言われて。

その建物の存在は、ご存知だったんですか。

多少は知っていました。新聞でも出ていたんですよ。こういう明治時代の木造の診療所があって、小学校や民間の候補はあるものの、なかなか引き取り手が決まらないと。

それが、結局は壊されることになったと聞いて、その足で見に行ったと思うんですよね。

見に行ってみたら、何だか、本当にかわいそうになってきて。

建物を見上げると、本当に泣いているような気がしたんですよね。

「もったいないね、何とかできないんだろうかね」という話をするうちに、「高木さん、あなたが移築しなっせ」みたいに話がなっていったわけです。

専門家の協力と条件の一致


でも移築先の候補がありながら、結局は実現しなかったわけで、簡単なことではないですよね。

お役所の手続きなど、私は何も分からないんだけど、その工務店さんは、熊本城の本丸御殿の仕事もされている専門家だったので、手続きや段取りは「私たちが、何とかする」と仰って。

それで普通は、県の担当と文章のやりとりをして、面接があってという段取りなんだけど。

もう時間がないものだから、そのときは、担当部署のトップの方と電話面接があって。

「あなたは、何者ですか」というところから、お話をして。

その結果、私に対する信用は大丈夫だったわけです。

そして、その他の条件として、この建物は、今の建築法の基準に適合していないので、街中には持っていけないわけです。

なるほど、昔の建物だから。

ところが、この金峰山の土地は、県立自然公園で環境に対する基準があって、逆に、鉄筋の何階建とか、変な建物を持っていっちゃいけない。

だから、お互いの条件が、そこでぴったり合ったわけですね。

それも運命的ですね。他の場所に土地を持っていても、きっとその条件でダメだったでしょうし。

熊本市内の区域として、この金峰山が唯一、残っていたという感じですよね。

それで、工務店さんが熊本城の文化財関係の人のところへ私を連れていって、「この人が移築するから、よろしくね」みたいな感じで段取りをして。

文化財関係の大部分の人の協力も得られるというところで、県の関係部署ともお話をして。

じゃあ、あなただったら良いでしょうということになり、それが金曜日に確定したわけです。

火曜日の午後の一報から、怒涛のスピードですね。

もう時間的にギリギリだったから、プロが話をつけていってくれたわけですよね。そういった協力者がいたから、何とかなったということです。

私はとにかく、あの建物を救出したいという想いだけでしたね。

だから、そのときは、お金がどれくらいかかるのかも、建物がどういう形になるのかも分からない状態で進んでいました。

私財を投じ、身を削って


予算的には、別荘を建てるのと比べて、どうだったんですか。

倍以上はかかったんじゃないでしょうか。

やはり、こういう建物を移築するのは大変ですよね。

それで、とにかく、この建物を遺す、そして文化財に登録するということが優先なんですよ。

だから、私が希望を言ったり、そこに口を挟んだりすることができないようなところもありましたね。

文化財として遺すとなると、難しいこともあるんですね。高木さんがお金を出すのに。

結局、2003年の2月に話が来て、10月末に移築ができて「花峰館」と名付けて、11月にオープニングのお祝いをしたんですが。

その間に、相当ストレスが溜まっていたようで。

翌年の初夏。喉にしこりができて、専門医に行ったら、悪性リンパ腫と言われて。

私、癌になっていたんですね。

それで、1ヵ月ぐらいの間に2度、手術をして。

それからは、周りも気を遣ってくれるようになりましたね。(笑)

ご病気のほうは大丈夫だったんですか。

これも不思議なんですけど。

手術後に検査をしたら、綺麗なわけですよ。

お医者さんも術後の状態を見て、首をかしげられて。全身あちこち検査をしたんだけど、大丈夫で。

どんどん良くなっていくから、放射線治療とかはしなくて済んで。

定期的に、病院に行かないといけないのも、ある段階から、大丈夫になって。

あれから十数年になりますね。

熊本地震を一つのきっかけにして


移築が完了してからは、花峰館はどういった場所だったんですか。

私が病気になったり、街中に仕事場を持っていたりして、ものすごく忙しくしていたので。結局は、この建物を救い出して、ここに建ち上がったというところで、時間が過ぎていったわけです。

そして、何年か前から、ニューヨークで個展をするというのが、私の一つのチャレンジとしてあるんです。

そのために、ここ数年は仕事を少しずつ減らして、作品作りに没頭しようとしていました。

ところが、去年、熊本地震があって。

マンション住まいで、耐震的には大丈夫だったけど、9階だから、そこには怖くて住めなくなって。そのときに、花峰館に避難してきたわけです。

花峰館は、建物の中は、ものが倒れたりしていたけれども、外観的にどうもなっていなくて。

ここが私を助けてくれたと感じるんですよね。

それから、またこの場所を積極的に活用するようになったと。

そうです。

地震で、製作途中のものが、ぐちゃぐちゃになって。そっちの希望が、一度、断ち切られたような感じになったんですよね。

今は、作品作りに必要な色んな道具を花峰館に持ってきて、作品を作るスペースを作りながら、相当の荷物なので、まだ整理がついていないという状況ですね。

活動の拠点を花峰館に移して。目下の目標は、ニューヨークでの個展ですか。

近い目標ですよね。

バラのとげでハイヒールを作るんですけど。

自分の作品をニューヨークの人が見たらどう思うか。自分がやっていることに対して、どう反応してくれるかというのを知りたいんです。

それが終われば、花峰館にもっと関わることができるかなと思います。

次世代に伝えたい大切なもの


ワークショップ

この花峰館を、どんな場所にしていきたいですか。

今は僅かながら、ここでレッスンをやっているんですが、生徒さんたちは、ここに来ると本当に喜びます。

この前のイベントでは、子どもたちにワークショップをしたんですけど。自然環境の良い場所にいると、子どもたちも顔色や表情が変わってくるんですよね。

そうして、この環境を楽しみながらやっていると、自然の好きな人たちが出会う場所になると思います。

こうした自然環境を大切に思う人が集って、交流する場ですね。

そして、子どもたちに、もっとこの自然を知ってもらいたい。

次の世代に大事なものを見失わないでほしいと言うか。こういう世界があるんだよということを伝えていきたい。

そういう意味では、もう一つ希望として、映画のシーンで花峰館を使ってもらいたいというのがあります。

この場所の雰囲気が映像作品の一部となって、それが広く見ていただけたら良いなと。

次世代に伝える、遺すという意味では、この建物を移築したときから一貫しているのかもしれませんね。

私は花の道で四十数年やってきて。

昔は、技術の高い人を育てよう、良い講師を育てようと、働き詰めでやってきたけど。

今は、そういうことよりも、この場所とこの建物と、私がやってきた花の道とが、自然と一体になっていけば良いなと。

花峰館は、花の道の追求と次世代のための場所でありたいなと思っています。

花峰館
https://www.facebook.com/kahoukan/

花峰館

写真:水本浩一

映像:龍野聖玄(映像制作tart


花峰館とは・・・

もとは、明治時代の産業遺産「旧 鐘淵紡績 熊本工場診療所」。

明治末期に日本最大規模の生産量を誇った鐘淵紡績の工場附属の診療所として、紡績業に携わる女工の健康管理のために建てられた。

・ 文化庁「登録有形文化財」(平成16年)
・ 熊本市「景観形成建造物」(平成16年)
・ 経産省「近代化産業遺産」(平成19年)

花峰館