コラム インタビュー

大槌わくわくファンクラブ 諸橋賢一 インタビュー「東北復興支援活動の経験談」

東北被災地

※諸橋さんの東北の被災地支援の活動は、熊本の復興に向けても含蓄のあるお話でしたので、『水俣食べる通信』の記事とは別記事にしてまとめました。

ノウハウを次の人へつなぐリレー


2011年の4月29日に、被災地のほうにボランティアで行ったんですよ。

日にちまで覚えているんですね。どういう経験でしたか。

岩手県遠野市の『遠野まごころネット』という団体が受け入れをしていたので、そこで活動をしました。そのときは世界から500人ぐらい集まっていたんですよね。

僕が行ったのは陸前高田で、サンマの冷凍加工場が津波にあって、そこの魚が辺り一面に散らばってしまっていて、それが腐ってウジがわいていると。まだ重機も入っていないので、釘とか出ている中、その片付けをひたすらやりました。

厳しい環境ですね。

翌日から10人ぐらいの班の班長になったんですが。

それまで来ていたボランティアは80人ぐらいだったところが、GWで一気に500人とかになって、統制が取れていないところが見られて、危ないなと思っていました。

そこにいる人たちは強い思いを持って参加しているので、みんな気持ちが高ぶっているんですよ。少しでも役に立ちたいと、すごい頑張るんですよね。

何となく想像できます。

でも、その班には女性や高齢の方もいたりして。頑張れば頑張るほど、他の人も頑張らなくちゃいけなくなって。どんどん作業に集中しちゃうから、安全に気が向かなくなるんですよね。

そこが危ないと。

そう、班長もみんな経験がないから、プレッシャーに押されて安全面よりも効率良くするほうに動いちゃうから危ないと。

夜にボランティアが集まってミーティングするんですけど、班長のミーティングをしたときに、班長のマニュアルを作ったほうが良いと。何が班長の目的なのか。まず安全を第一に、バスに乗って現地に行って、そして無事に帰ってきて、次のボランティアにバトンを渡すのが班長の役割だと。

ボランティアは入れ替わりが常だからリレーなんですね。

そうです、それで次の人がスムーズに入れるように形に残そうと数人に声をかけて、手書きで班長マニュアルを作ったりしました。

そのときはどれくらいの期間いらしたんですか。

そのときは4日間いました。

学生の頃に実習でドミニカに40日行きましたが、経験としては、それに劣らないぐらい濃いものでした。

それ以来、月-金は仕事をして、週末は東北に通うという生活が続きました。

「農大復耕支援隊」の活動


復興のヒント

そのうちに大学の同期3人で相談して、学生を東北へ連れて行くボランティアツアーを始めたんです。

農大復耕支援隊』という団体を作って、40人乗りのバスを借り切って、それに現役の学生と卒業生と乗せて東北に行くようになりました。

その活動はどれくらい続いたんですか。

今も続いています。
今は学生がサークルにしてくれています。学生主体にして、僕らはサポートみたいな感じです。

今年も学生が事前に東北に行って、大人たちと話して何ができるか考え、それをベースにツアーの行程を組んで、学生が学生を連れて行くんです。

活動の資金はどうされていたんですか。

当初は、参加者の半分くらいを大学のOBを中心に、社会人にしました。OBが学生の分を負担できるように社会人の金額を高くして、学生が行けるような価格設定にしていました。

実費をみんなで分担していたんですね。

そうです。あとはOBなどから資材や募金を集めたりもしました。それプラス、学園祭で東北の野菜を使った郷土料理を販売して、その売り上げを充てたりとか。

今はOBが勤める会社が支援してくれたりもします。

その仕組みづくりで鍵になるのは何だったと思いますか。

良かったのは、最初の半年ぐらいは瓦礫の撤去ばかりだったんですけど、その中でテーマを見つけようとしたんです、農大の学生ができることを探そうと。

それで、現地は津波で色がなくなってしまったということがあって。そこにはアスファルトと土の色と、雑草が生えてくる緑しかない。その中に花を植えたら、被災者、ボランティアに関係なく気持ちが明るくなるんじゃないかと。

色がなくなった町に色が戻れば気持ちが変わりそうですね。

はじめボランティアは「ありがとう」と現地の人に感謝されるんですけど、そこに微妙な距離を感じて、それが嫌だなというのもあって。

花を植えれば、感謝じゃなくて、それが単純に笑顔になるだろうと。嬉しいという声が聞こえるんじゃないかと思って。

それで、現地の人たちと一緒に、住宅は津波で基礎がなくなっていたので、そこを花壇にしようとしたんですよね。みんなで球根とか苗を持って、現地の人と一緒に学生が植えるんですけど。

現地の人と学生が、田舎のおじいちゃんおばあちゃんと孫みたいになっちゃうんですよ。そこで関係性ができ上がっていって。

共同作業というのが距離を埋めていくのかもしれないですね。

秋に植えたら、次の春に咲くので、「春に見に来るから」と約束して、春に行く動機もできる。

春に来て、帰り別れるときにはみんなで手を振ってくれて。学生のアンケートなどを見ると、田舎のおばあちゃん家から帰るときみたいだったという感想もあって。

「農大復耕支援隊」という名に相応しい活動ですね。花のように育って変化があるというのは分かりやすいですよね。

そうですね。畑作りも一緒にしたんですけど、花壇や畑作りで、そういう関係性ができていったのは1つ良かったなと思います。

住居跡の花壇

復興支援の継続


東北でやったのは、もう1つ。

岩手県大槌町のファンクラブを作ったんです。『大槌わくわくファンクラブ』というFacebookのグループで、2012年の6月に提案して作ったんですけど。

瓦礫の撤去とか、そこに課題が明確にあると、みんな行きやすいんですけど。それが1年もすると、ボランティアで初めて大槌に行った人たちが、また大槌に行って良いのか分からなくなるんですよ。

その理由がなくなると。

そうそう、理由がなくなって、少し離れると様子も分からなくて。

そのときは地元の人との関係性ができ上がっていなかったんですよ。色んな活動も団体に入ってやるから、個人としてのつながりはないんですね。

10年とか20年とか、つながるためには、ボランティアでは違うだろうと。それぞれが友達になってくれるようなプラットフォームを作ったほうが良いだろうと。

それでFacebookにグループを作って、今1,000人ぐらいいるんですけど。

そのグループ内では、どういう運営をされたんですか。

そのときは茨城にいたので、月に1回はオフ会をしていました。

あとは岩手の人が物販をするために東京に来たりするじゃないですか。そうしたら、みんなで手伝いに行ったりとか。

そういう情報を共有して。

そうですね。「日本全国を大槌町のホームにしてやれ」みたいな。

そっか、ボランティアは全国にいるから。

そうです、どこどこに行くって言ったら、そこの近くの人たちが集まって、手伝いに行くという感じで。

グループ内では、誰かが今の大槌の話をするじゃないですか。それで5年経っても、何となく雰囲気を掴めると思うんですよ。

最初は行けてたけど、色んな事情で足が遠のいちゃう人もいますよね。そんな人たちも、タイムリーに今の大槌の話題が上がっていれば、また行けるし。大槌の人が自分の近くに来たときに、そこに行けば、また関われるんですよね。

離れていても、またいつでも戻れる仕組みになっているんですね。

昨日もたまたま、大分の竹田に大槌の人が来ていたので行ってきたんですけど。そこに行くと、大槌関連の人が周辺から集まってくるわけですよ。

そこで飲み会をしていると、大槌関連の仲間が沢山いて、「何だか、大槌で飲んでるみたいですね」と言って飲んでいました(笑)

そうやって日本全国、どこでも大槌のホームになっちゃうわけだ。

そうです。5年経っているので、そんなに激熱ということでもないですが。でも、そうやって緩くつながりは残っています。

震災で沢山のものを失ってしまいましたが、震災がきっかけで生まれた人と人のつながりや、そこから生まれる笑顔が、大槌の新しい宝物になれば良いなと思っています。

東北復興花壇

※記事のお写真はすべて諸橋さんよりご提供いただきました。

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